アトラシアン本社の情報サイト『WORK LIFE』より。編集部のジェイミー・オースティン(Jamey Austin)が、フォード・モーター社を窮地から救ったとされる伝説の自動車「フォード トーラス(Ford Taurus)」を開発したチームがどのように形成され、なぜ成功を収めることができたのかについて考察する。

「フロントグリル」の排除を可能にした経営陣のバックアップ

前述したような製品の大きな変革を成し遂げるうえでは不可欠な要素が2つある。一つはプロジェクトチームの「勇気」であり、もう一つは経営陣によるサポートだ。

ご存知のように、大抵の乗用車には前面に格子状のグリル(フロントグリル)があり、その上に社名ロゴが装着されています。それはフォード車についても例外ではなかったのですが、チーム トーラスは、そのフロントグリルをなくすというデザイン案を採用しました。結果的に、その斬新なデザインが話題となり、トーラスの売上げを押し上げたのですが、フロントグリルをなくす案に対しては、当初、フォード社内から相当の反発があったのです。(タウブ氏)

その反発は、マーケティング部門や営業部門など、社内の各部門から受けたとテルナック氏は明かしている。

マーケティング部門や営業部門の担当者らは「フロントグリルがないクルマなど、クルマではない! 絶対に売れない!」と猛然と反発してきました。他の部門からも「グリルがないのはダメだ」といった声が寄せられました。それでも、私たち(チーム トーラス)は一貫して「この新製品は、これまでのフォード車とはまったく異なるクルマなんだ。フロントグリルは必要ない」と主張し、反発に抗ったのです。(テルナック氏)

ただし、社内の反発は相当に強く、チーム トーラスによる説得では収拾がつかなかった。そこで必要とされたのが経営陣の支持であり、サポートだったとテルナック氏は振り返る。

フロントグリルを巡る社内の論争に決着をつけるべく、私たち(チーム トーラス)は、当時の副社長でデザインの最高責任者だったビル・フォード氏に最終的な判断を仰ぐことにしました。そのとき、フォード氏はチーム トーラスを全面的にサポートする姿勢を明確にし「フロントグリルは不要である」と言い切ってくれたのです。その言葉を耳にしたとき、彼のもとに駆け寄り、抱きつきたくなりましたね(笑)。(テルナック氏)

チーム トーラスに対するサポートは、当時のCEOであるコールドウェル氏も行っていた。同氏はテルナック氏が「かつてない製品」を生み出せるよう、さまざまなサポートを惜しみなく提供したという。その後押しは強力で、テルナック氏が過去に経験したことのないような経営陣によるサポートであったと同氏は明かしている。

パーパス重視でステークホルダーの意見をはねのける

先にも触れたとおり、チーム トーラスでは、組み立てラインの作業員たちもプロジェクトに巻き込んだ。具体的には、チーム トーラスのデザイナーとエンジニアが試作品の組み立て作業に立ち会い、組み立てラインを上流から下流へと下りながら「組み立てをより簡単にするために、現状のデザインにどのような変更を望むか」という質問を作業員たちに投げかけ、忌憚のないフィードバックを集めたのである。

こうしたデザイナー、エンジニア、そして組み立てラインの作業員とのコラボレーションは、フォードの製造プロセスに革命的な変化をもたらすものだった。ゆえに、フォード氏はそのコラボレーションを徹底してサポートした。具体的には、組み立てラインの作業員たちに対し、試作品の組み立てにおいて何らかの問題を発見した際には、躊躇なくラインを止めて、デザイナー、エンジニアに不具合を報告するよう奨励したという。

この奨励は、フォードの製造プロセスのみならず、企業文化そのものを変容させることにもつながった。その変化を一口にまとめれば、組織全体での「心理的安全性」の向上である。言い換えれば、部門の違いや組織階層における上下の垣根を越えて、自己への批判を恐れずに自分の率直な意見をオープンにできる文化が醸成されたのである。そして、この心理的安全性こそが、テルナック氏が追求していたプロジェクトチームのDAを実現するうえで不可欠な要素だったのである。

ただし、デザインから試作品の作成に至るプロセスにおいて仮説検証を繰り返し、都度、デザインへの手戻りを発生させていると、多くの場合、プロジェクトの遅延という問題が引き起こされる。要するに、試作段階での建設的なフィードバックは、より良い製品づくりにつながる一方で、その代償として製品の完成・出荷の遅れという事態を引き起こすことが多々あるのである。

事実、フォード トーラスのプロジェクトも当初の計画から作業の進捗が遅れていた。

当初の計画では1985年1月5日にロサンゼルスで開催されるモーターショーでトーラスの完成イメージをお披露目し、同年の秋口から販売を開始する予定だった。ところが、完成イメージの作成が1月5日のモーターショーに間に合わず、同イメージの報道向けの公開には、それから数週間以上のときをかける必要があった。加えて、トーラスが完成に近づいた1985年の春になり、製品の信頼性に負の影響を及ぼしかねない小さな不具合が見つかった。その問題は、製品の信頼性がそれほど高くなかったかつてのフォードでは、見過ごされるような不具合だった。しかし、チーム トーラスはその不具合を深刻な問題としてとらえ、製品の完成を遅らせる決断を下したのである。

ちなみに、トーラスの当初の販売計画に沿って試算した場合、製品の発売が1週間遅れるたびに約5,000万ドル分の販売機会が失われる計算になっていた。ゆえに、販売の開始時期を後ろ倒しにすることだけは是が非でも避けなければならなかった。

ところが、チーム トーラスが上述した不具合の問題を解決して製品を完成させ、発売に向けた準備を整えようとしたとき、突如として「トーラスはデザインがあまりにも斬新過ぎる。売れないのではないか」といった懸念がステークホルダーの間に広がり、デザインの変更を求める声が強まり始めたという。

それでも、私たち(チーム トーラス)には、トーラスのデザインに手を加える気は一切ありませんでした。もちろん、ステークホルダーたちの提案をはね除けるのは勇気のいることです。彼らの意見を取り入れ、デザインに手を加えることのほうが簡単でした。ただし、それによってトーラスを開発したそもそものパーパスが捻じ曲げられてしまうリスクがあり、そのリスクを背負うようなことは絶対に受け入れられなかったのです。(テルナック氏)

チーム トーラスが背負っていたのは、フォードの未来だけではなく、米国自動車業界全体の未来だった。仮にトーラスが失敗し、フォードが倒産へと追い込まれた場合には、米国の自動車業界が壊滅的な打撃を被ることは必至だったのである。

チーム トーラスの全員は、そんな重責を背負いながら、トーラスの成功のために全身全霊をかけて取り組んでいた。ゆえに、たとえ失敗をしても、自分たちの信念を曲げて後悔するようなことだけはしたくないと考えていたようだ。

発売後のトーラスがもたらした変革

こうして発売されたトーラスは、革新的な空力デザインと良質なドライビング体験で消費者の心をつかみ、全米で大ヒットを記録した。発売翌年の1986年には米国ナンバーワンの自動車専門メディア「モータートレンド(MortorTrend)」の「カー・オブ・ザ・イヤー」にも選ばれている。これは、並みいるヨーロッパ車や日本車を抑えての受賞だった。

加えて、トーラスの成功は、フォードを破綻の危機から救っただけではなく、米国の自動車メーカーにおける製品づくりのあり方に革命的な変化ももたらした。

トーラスのヒットによって、チーム トーラスが採用した全方位的なデザインアプローチ、すなわち、関係するすべての部門を巻き込んだデザインアプローチの有効性が広く認められ、フォードのみならず、米国のあらゆる自動車メーカーがそれにならった製品づくりを進めるようになりました。これは要するに、米国のすべての自動車メーカーが、部門ごとのサイロを打ち壊し、セクショナリズムやエゴを一掃することの大切さを学んだということです。実際、優れた自動車を作り上げるには、部門を跨いだ密接なコラボレーションが不可欠であり、相互の信頼関係のもとで、建設的で率直、かつオープンな意見交換や情報共有がなければなりません。そこにはサイロも、エゴも、他部門への偏見もあってはならないのです。(タウブ氏)

もっとも、トーラスのストーリーには、モノづくりに携わるすべての人が留意すべき点がある。それはイノベーションを継続させることの難しさだ。とりわけ、テクノロジーの進化・発展が目覚ましい今日においては、自動車を含む多くの商品(製品、サービス)の賞味期限、さらにはプロセス変革そのものの賞味期限が1970年代、あるいは1980年代に比べて圧倒的に短くなっている。つまり、「革新的な商品」の開発に何年もの歳月を費やしている余裕はなく、また、仮に革新的な商品を開発し、市場で成功を収められたとしても、その革新性が瞬く間に失われてしまう可能性が大きくなっているのである。ゆえに、モノづくりを生業とする企業は、絶え間のないイノベーションを奨励し、それを評価し続けなければならなくなっている。ゆえに、トーラスのサクセスストーリーについても、そこから今日に通じる成功の原理原則を見定めることが大切であり、それをもとに、どのようなイノベーションの文化を、どう社内に根づかせるかを検討することが重要といえる。

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