カインズの従業員にとって遠い存在だったデジタル

池照氏がカインズに入社し、デジタル戦略本部を立ち上げたのは、18年に「IT小売業宣言」を打ち出したカインズ会長の土屋裕雅氏の要請によるものだ。

土屋氏は、小売業の発展・成長にはデジタル技術の有効活用が必須との考えをかねてより持ち、自ら調査・研究を重ね、識者の豊富な人脈もつくっていた。そうした調査活動の一環として、同氏は18年、当時カインズの顧問を務めていた池照氏を連れ立って米国の巨大物販プラットフォーマーのイベントに参加し、「リテールテック(=小売業向けのデジタル技術)」の進化・発展の勢いと先端のデジタル技術を貪欲に取り込もうとする米国小売業界の姿勢に大いに刺激を受け、また危機感も募らせたという。それが「IT小売業宣言」へとつながり、池照氏の採用とデジタル戦略本部の創出へとつながったわけだ。

ただし、当時におけるカインズ従業員の大多数は、デジタル技術を自分たちにとって縁遠い存在と捉えていたようだ。

「カインズでもかねてよりネット通販のビジネスを展開していました。ただし、実店舗の売り上げが全体の99%を占めており、ネット通販のデジタルチームは実店舗の事業とは切り離された、小さな商(あきな)いをする組織に過ぎませんでした。言い換えれば、大多数のカインズのメンバーにとって、デジタル技術やデジタルチームは自分たちのビジネスとはほとんど関係のない存在であり、その活用によって大きな利益がもたらされるとはまったく考えていなかったわけです。

ですので、会長の土屋から『IT小売業になる』と言われたときも、のちにデジタル戦略本部が立ち上がり、デジタル人材の採用が始まったときも、大多数のメンバーたちには戸惑いや驚きしかなく、新たに雇用されたデジタル人材についても、自分たちから遠いところで何かを始めようとしている人たちであって、自分たちのために働いてくれる身近な同僚とは見ていなかったようです」(池照氏)

加えて、伝統的な小売企業であるカインズの人事制度と、デジタル人材を取り巻く業界の人事制度との間に大きな違いがあったことから、同社はデジタル人材の雇用に向けて別会社をつくり、その会社からカインズに出向させるという体制をとらざるを得なかった。それも、新たに雇用したデジタル人材と、カインズのプロパーメンバーとの間に一定の距離を生み、一体化を難しくする可能性があった。

「全メンバーがデジタル技術によるビジネス変革を推進するという理想を追求する上では、デジタル人材もカインズのメンバーとして雇用するのが本来の姿でした。ただし、それにはカインズという大企業の人事制度を変更しなければならず、制度変更に最短でも1年の時を要することが目に見えていました。現在は、カインズ本体でデジタル人材を雇用できるよう人事制度を複線化する検討を進めていますが、当時はデジタル戦略本部の立ち上げから半年以内に成果を出すことを目指していたので、別会社をつくる以外に選択肢はなかったといえます」(池照氏)

デジタルチームとプロパーメンバーの一体化を促した方策

上述したような状況の中で、カインズのプロパーメンバーと新規雇用のデジタル人材との一体化を図るのは簡単なことではなかった。

画像: 20年1月には、表参道に「CAINZ INNOVATION HUB TOKYO」をオープン。デジタル戦略の強化に向け自走するための新たな拠点として、“自前”のDX推進チームが集う

20年1月には、表参道に「CAINZ INNOVATION HUB TOKYO」をオープン。デジタル戦略の強化に向け自走するための新たな拠点として、“自前”のDX推進チームが集う

その難題を解決する手だてとして池照氏が講じた施策の一つは、デジタル人材と会社の目的意識に共通性を持たせることだ。そのための取り組みとして同氏は、デジタル人材の採用面接時に多くの時間を割いてカインズの成長戦略について説明し、それに共感できる人材、あるいは、カインズの成長戦略の遂行を自身のキャリアパスと重ね合わせられる人材を求めたという。

一方でプロパーメンバーによるデジタルへの理解を深めることにも力を注ぎ、その一手として実店舗の企画、運営、現場業務に長く携わり、店舗生産性改革本部で働いていた3人をデジタルチームに引き入れた。以降の3カ月間、3人に対してデジタル技術の本質やデジタル技術を使った戦略をどのように描くべきかを説き、DXへの理解を深めてもらったという。結果として、その3人がITエンジニアとビジネス現場とをつなぐハブとなり、経験や立場にとらわれることなくメンバー全員が忌憚(きたん)ない意見を言える環境――いわば心理的安全性が高い環境構築が実現。デジタル技術を使った実店舗の改革・改善プロジェクトがさまざまに立ち上がるようになった。

さらにもう一つ、池照氏がこだわったのが、デジタル技術活用による成果を早期に上げることだ。先に触れたアジャイル開発の体制づくりはそのための施策でもあった。

この施策を確実に展開するために、同社はアジャイル開発で豊富な実績を持つ海外のコンサルティングファールの協力を仰ぎ、デジタルチームによるアジャイル開発の実践スキルに磨きをかけた。また、「ローコード開発(=ほとんどプログラミングを行わない開発)」や「ノーコード開発(=プログラミングを一切行わず、機能部品を組み立ててソフトウェアを開発していく手法)」に長じた国内IT企業にも支援してもらい、そのノウハウ、スキルを吸収したという。

結果として、デジタルチームは、ビジネス現場の担当者とともにスピーディに、かつ自走によって成果を上げられるようになった。また、それが先に触れた売り上げの増進といった目に見える効果につながっていったことで、ビジネス現場がデジタルチームに信頼を寄せるようになり、結果として協業・共創の輪が広がり、成果がさらに積み上がるという好循環を生んだと池照氏は説明を加える。

異なるスペシャリティと価値観を混ぜ合わせるのがDXのリーダーシップ

この好循環が生まれるまでの過程では、デジタルチームとカインズのプロパーメンバーとの間でたびたび衝突も発生したという。

ただし、衝突を乗り越え、デジタルチームと現場の人員を一つに“混ぜ合わせる”のがDXを主導するチームリーダーの役割であり、その役割を担えるリーダーシップが現場になければ、デジタルによるビジネス変革は起こりえないと池照氏は指摘する。そして、そのリーダーシップを発揮する上でのカギは、ともにプロジェクトを推進する全員の目的を一つにすることにあるという。

「カインズにはもともと異なるスペシャリティや経験、価値観を持ったメンバーが多くいます。一方で、デジタル人材もカインズのプロパーメンバーとはまったく異なる経験と価値観を持っています。そうした多様な人材に、お互いの衝突を乗り越えながら、一つの方向を向いて働いてもらうには、リーダーが明確な目的・目標を掲げ、ともに働く全員の共感を得ることが大切です。加えて言えば、デジタルチームとビジネス現場の共通の目的・目標は、究極的には全社共通のビジョン、戦略目標となりますが、そうした高次元の目的、目標は、ビジネス現場で働くメンバーが自分事として捉えづらく、追い求める意欲も沸いてきません。ですので、目的・目標を現場がより身近に感じられるレベルに落とし込むことも重要で、その調整を行うのもリーダーの役割といえます」(池照氏)

このように多様な人材を一つに混ぜ合わせるリーダーシップのもと、デジタル技術を用いた成長戦略を軌道に乗せたカインズでは今、10年先、20年先のデジタル技術の発展を見据えながら、新しい小売りの姿を構想している。

「その将来構想においても、当社が持つ小売事業者としての本質的な強みをデジタル技術でどう増幅させるかが肝になりますし、今後10年先、20年先には実店舗での体験が消費者にとってより特別なものになると考えてもいます。つまりは、カインズが過去30年以上にわたって培ってきた強みとデジタルのパワーを融合させれば、小売事業者としてネット主体の巨大企業を大きくしのぐ価値を、消費者に提供し続けることができると確信しています」(池照氏)

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