典型的な衰退業界で好業績を維持
本書は、和歌山県にある昭和3年(1928年)創業の酒蔵、平和酒造株式会社の4代目社長である山本典正氏が自社について綴ったものである。日本酒をたしなまない方にとっては縁遠い会社かもしれないが、ホリエモンこと堀江貴文氏が出資する宇宙ベンチャー、インターステラテクノロジズが開発したロケットの燃料の一部に同社製造の日本酒が使われたり、元サッカー日本代表の中田英寿氏とコラボレーションしたりといったニュースが話題になったこともある。
日本酒市場は、生産量から業者間取引量を除いた課税移出数量が1973年度のピークから3分の1に減少した。そのように衰退している市場にあって、平和酒造は15年間で売り上げ2倍、経常利益率17%を叩き出す超優良会社なのである。
本書は、その核となる「個が立つ組織」を作り上げる要点を全5章37のポイントにまとめている。“社長の話”と聞くと自画自賛の自慢話を思い浮かべるかもしれないが、みずからの暴走や挫折などが隠すところなく、そのまま記述されている。
自社の歴史を見つめ、進むべき道を決める
第1章では、自社の進むべき方向をどこに定めたのかをその理由とともに述べている。
まずぶち当たったのが、業界の因習である。山本社長は、家業を継ぐ前は外の企業で働いていたこともあり、製品戦略、流通経路、雇用のあり方などに多くの疑問を持った。
実はそういった因習や習わしというのは、過去の成功体験により最適化された一つの「うまくいくやり方」であり、会社が続いてきた歴史そのものでもある。山本社長は、まずその歴史から振り返り、自社の今の立ち位置を見つめ直した。
そして幾度もの失敗を経ながら、残すべきもの、変えていくべきものを見いだしていく。その結果、というかその根元として選択したのは、短期的な急成長は目指さず、良い商品を長く売る「低成長モデル」である。
幾度も壁にぶつかりながらも常識を変えていく
2章以降では、さまざまな局面での「個が立つ組織」へ変えていく山本社長の悪戦苦闘が語られる。
社長になった当時の習わしは、酒造りは杜氏と蔵人に任せっきり。その一方で杜氏や蔵人は季節ごとの請負契約で正社員でもなかったという。いわゆる極端な「製販分離」体制だったのだが、山本社長はこれを「無責任さを共有できるシステム」として改革に乗り出す。
目指すのは蔵人全員が酒造りの技術に精通して仕事に誇りを持ち、そのまとめ役として杜氏がリーダーシップを発揮するような組織なのだが、最初は大失敗。その経緯は本書をお読みいただくとして、失敗の原因は「そもそも私が信頼されていなかったのだ」と自己を冷徹に見つめ直されている。
そして、「任せてダメになるリスクより、任せないで何も始まらないリスク」を恐れ、若手にも積極的に重要な仕事を任せる、という考えに至る。一味違うのは「人は自分の身が守られているという安心感がなければチャレンジしない」と喝破し、「多少の失敗は称賛されるくらいの環境」でなければならない、と言及している点だ。「平和酒造はゆるやかな年功序列、ゆるやかな実力主義の会社」なのは、過度の成果主義、失敗を許容しない人事考課といった旧弊を改めない限り、人はチャレンジなどしないということだろう。
根底にあるのは社員への深い思い
このような改革を続けた結果、今では新卒採用に2,000人が応募するほど有名な会社になった。ただし、採用数が一人しかいない、という年も珍しくないとのこと。そして、同じ目線、同じ志で歩む人を選ぶために、入社後に時間をかけるのではなく、入社前に時間をかけるためだということで、面接時間は2000時間を超えるそうだ。
また、入社後も3か月に1度の面談、SNSによる部門や階層を超えたコミュニケーション、月に数度の外部カウンセラーとの1時間の面談など、とにかく時間をかけて社員の声に耳を傾けている。その根底にあるのは性善説に基づく社員への愛であり、「指示通りに動くだけの人にはなってほしくない。『よく働く』蔵人ではなく『よく考える』蔵人になってもらいたい」という思いである。
また、「歴史が変わっても変わらない、働くことの意義は自分も含めて人のためになるということ」「日本のコメ文化を維持、発展させるためにもコメを原料とした日本酒の価値を高めていくことは何にも代えがたい平和酒造の役割」と述べている。「個が立つ組織」を実践し、低成長業界でも安定した成長を続けるその根底には、人を大切にし、社会に感謝し恩返しをする、という至極真っ当な価値観が横たわっているのである。
「ウチの社員からは新しいアイデアなんて出てくるはずがない」「技術部門はリクツばかり言って非協力的で困る」などとお嘆きの皆様に、ぜひお読みいただきたい一冊である。