アトラシアン本社の情報サイト『WORK LIFE』より。アトラシアンの前CRO(最高収益責任者)であるキャメロン・デアッチ(Cameron Deatsch)が、ビジネス成長の手法であり、原動力ともいえる「グロースレバー(Growth levers)」を生かす方法を説く。
本稿の要約を10秒で
- 法人組織(企業)に向けたビジネス(以下、B2Bビジネス)を展開する企業にとって、顧客との良好な関係を築き、それを成長の糧(かて)にすることはきわめて重要である。
- 製品に対する満足度の高い顧客が、新たな顧客を呼び、ビジネス成長の好循環を生む「フライホイール効果」を手にできる可能性のある企業(=フライホイールモデルを採用する企業)は「クロスセル」や「アップセル」「マーケットプレイス」といったビジネス成長のための手法「グロースレバー」を使い、顧客の生涯価値(LTV)を高めることが容易になる。
- 成長のためにどのグロースレバーをどう使うかは、顧客データに基づいて決定すべきものだ。ただし、事業を始めたばかりの段階では直感で判断するしかない。
設立20年にわたる持続的な成長の理由
アトラシアンの設立は2004年のこと。2024年に設立20周年を迎えた。
アトラシアンが属するIT業界は、技術トレンドや顧客ニーズの変化が非常に激しく、新しい企業と次から次へと生まれては消えていく。そんな業界にあって社齢20歳というのはかなりの長寿だ。
長寿の要因はさまざまにある。なかでも大きな要因の1つは、アトラシアンの共同創設者たちが「セルフサービス型の購入体験」(参考文書(英語))を顧客企業に提供し、それによって製品の普及を図るという販売戦略を選んだことだ。この選択は、いわゆる「フライホイールモデル」を採用し、「フライホイール効果」を手にできる可能性を広げたことでもある。
仮に彼らが、対面営業を中心にした、B2Bビジネスにおける伝統的なセールスモデルに固執していたならば、アトラシアンの事業が軌道に乗ることすらなかっただろう。
また、アトラシアンの製品戦略も、持続的な成長の一因といえる。アトラシアンでは単一の製品の強化と普及に注力するのではなく、強力なエコシステムを持つ多彩なアプリケーションによってプロダクトポートフォリオを形成するという戦略をとってきた(参考文書(英語))。もし、アトラシアンが単一の製品だけで自社の成長を図ろうとしていたならば、今頃は大手のIT企業に吸収されていたかもしれない。
他社とのM&A自体は決して悪いことではない。ただし、会社を立ち上げた当事者たちは、恒久的に自律した企業であり続けたいと願うはずである。その願いを叶えるためには、ビジネスを成長させる術(すべ)を習得することが重要となる。
ここでいう「ビジネスの成長」とは、顧客基盤の拡大だけを指しているのではない。そこには、単一の顧客企業における自分たちのフットプリント(足跡)を押し広げるという意味も含まれており、B2Bビジネスでは、そのための取り組みのほうが成長への貢献度が高いといえる。
そうした成長をもたらす原動力、ないしは手法が「グロースレバー」と呼ばれるものだ。活用できるグロースレバーの数が多ければ多いほど、顧客に価値を提供するための方法が多彩となり、顧客の生涯価値(Life Time Value:LTV)を高めやすくなる。以下では、アトラシアンが重視している5つのグロースレバーについて紹介する。
「フライホイール効果」とは
「フライホイール効果」とは、ビジネスにおける小さな成功の積み上げによって、最終的にビジネスを大きく成長させる好循環が生まれる効果を指している。例えば、製品の提供を通じて良質な顧客体験を提供し続けていると、製品のファン層が増えていく。そのファン層が新たな顧客を呼ぶことで「ローイングマシン」などに動力を供給する機械式フライホイールが作り出す勢いのように、顧客の数が自然増の形で加速度的に増えていく現象がフライホイール効果と呼ばれている。機械式フライホールの原理をビジネスモデル化したものは「フライホールモデル」と呼ばれ、このモデルは、SaaSアプリケーションのようにセルフサービス型の販売モデルを通じて、多数の顧客に製品を提供するタイプのビジネスに適しているとされる。
「フライホイールモデル」と「グロースレバー」がなぜ大切なのか
単一の製品で成功を収めているIT企業は数多くある。こうした企業では、新規顧客(法人顧客)と全社レベルの大型契約を交わし、製品が確実に使用されるよう、顧客のもとに「カスタマーサクセスマネージャー」の一団をアサインする。
そして、カスタマーサクセスマネージャーらが仕事を適切にこなせば、数年に1度の頻度で訪れる契約更新時における解約率が下がり、結果として顧客の数が増えていくことになる。また、契約更新時には顧客が製品の適用範囲を押し広げて、追加のライセンスを購入する可能性も高い。
このように、顧客とIT企業との関係は一般に、数年に一度の大きな決断によって決定づけられる。このアプローチは、大きな土地を次から次へと販売していくアプローチに似ている。
これに対し、フライホイールモデルによるアプローチは通常、顧客の状況やニーズに合わせた控えめな初期販売からスタートする。のちに、顧客のニーズに従いながら、製品を使うユーザー数や契約する製品・サービスの種類を増やしていき、顧客との関係を拡大していくことになる。
このアプローチによって顧客は、自分たちが欲する価値と製品への投資額を一致させることが可能になる。つまり、高額な料金を支払って、現時点では必要のないユーザーライセンスや機能が数多く含まれた製品を導入する必要がなくなるわけだ。これにより、投資に無駄を発生させてしまうリスクもほぼ無くなる。
しかも、アトラシアンでは、すべての製品について無料版を用意しており、料金を支払う前に、製品、サービスの価値を実感してもらえるようにしている。
これは、顧客満足度とロイヤリティの向上にプラスの効果をもたらすものだ。というのも、IT製品を使う側は、その大多数が、製品の購入後に機能・性能、サポートサービスが期待を大きく下回り、投資の多くが無駄になるリスクに不安を感じているからである。
こうした不安は、満足のゆかない製品体験への不満を増幅させ、製品に対する悪いイメージを顧客に植え付ける。そして、顧客がライセンス契約の更新についての意思決定を下す際には、そのネガティブな記憶のせいで他社の製品への切り替えを優先して検討するようになる可能性が大きい。
また、ビジネスの安定度という観点からいえば、大型契約を数件とることで収益目標をクリアしようとするセールスモデルよりも、フライホイールモデル(フライホイール型のセールスモデル)のほうが高いといえる。例えば、フライホイール型のセールスモデルでは、数百件・数千件の小さな取引の積み上げによって収益の全体が形成される。そのため、毎月の収入が安定的になり、財務面での予測も立てやすくなる。
さらに、フライホイールモデルを採用しながら、グロースレバーを巧みに活用することで、顧客のLTVを効率的に高めていくことができる。
もちろん、新規顧客の獲得は明るい未来への布石となる。ただし、特定の製品を欲する企業の数には限りがあるほか、新規の顧客企業を獲得するには相応の手間とコストがかかる。ゆえに、B2Bビジネスにおいては、新規の顧客を獲得するよりも、既存顧客との取引を拡大させるほうが合理的であり、成長の早道といえる。しかも、顧客との取引の拡大は、顧客との信頼関係の強化につながる。結果として、企業のサステナビリティが高められることになる。
アトラシアンが重視する5つのグロースレバー
では次に、アトラシアンが重視する5つのグロースレバーの紹介に移りたい。
あなたの会社が推進しているビジネスの特性や成長の段階によって、ここに示すグロースレバーが有効に機能するかどうかは異なってくる。ただし、5つのグロースレバーのいくつかは、あなたの会社でも有効に機能させられるはずである。
グロースレバー① ユーザー数の拡大
アトラシアンの製品を導入する多くの顧客企業は、特定のチーム、あるいは特定の部署内での利用に限定して製品の活用を始動させる。仮に、あなたの会社の製品も、このような利用のされ方をしているならば、それは素晴らしいことである。というのも、自社の製品を使う部署やチームが限定的であるということは、顧客企業内で自社の製品を使うユーザー数を増やせる可能性があることを意味しているからでる。
もちろん、会社の中で、どの製品のユーザーを増やすかは、その企業の一存によって決められるものである。ゆえに、外部の企業がその決定をコントロールすることはできない。とはいえ、何もないところから新規の顧客、あるいはユーザーを獲得するよりも、既存の顧客企業に対してクロスセルやアップセルをかけ、自社の製品を使うユーザーを増やしたり、顧客企業のLTVをアップさせたりするほうが難度は低いといえる。
加えて、ユーザーの口コミによって製品の普及を図るチームに投資したり、柔軟なライセンスプランによって潜在顧客が製品を導入するハードルを引き下げたり、「CSAT(顧客満足度指標)」や「NPS(ネットプロモータースコア)」の数値を向上させるプログラムを展開することも、ユーザー数の増大スピードを加速させる効果が期待できる。
例えば、アトラシアンでは、製品のユーザー数を増やすための一手として、顧客企業のIT管理者が数回のクリックでアトラシアン製品の利用者(ユーザー)を新たに追加できる仕組みを開発。併せて、その仕組みと連動し、ユーザーごとのライセンス料金を自動的に変動させるシステムを提供した。この施策は新規のユーザーを獲得するための戦術として非常に有効に機能し、大きな成果を上げているのだ。
グロースレバー② アップセル
自社の製品の成熟度が増し、顧客基盤が拡大していくと、その製品に対する顧客ニーズが多様化していく。この多様化は、製品のグレードをいくつかに分けて「アップセル」の施策に活用できるチャンスでもある。
そのチャンスを生かすべく、アトラシアンでは自社のSaaS製品を「無料版」「標準版」「プレミアム版」「エンタープライズ版」という4つのエディションに分けて提供し、アップセルの機会を複数設けている。また、顧客企業のIT管理者が製品のアップグレードをセルフで行える環境も整えている。
もっとも、ローンチしたばかりの新製品に、こうしたアップセルの手法を適用するのは良策とはいえない。なぜならば、製品のビジネスモデルが高額なエディションからの収入に過度に依存するものとなるリスクがあるからだ。仮に、そのリスクが現実のものとなった場合、上位エディションの強化に多くのリソースが集中して投入されるようになり、基本エディションの魅力が低下していく。結果として、基本エディションが新規の顧客を引き付けられなくなり、ビジネスの停滞を招いてしまうのである。
グロースドライバー③ クロスセル
あなたの会社が、製品の提供を通じて顧客のニーズを満たせているならば、顧客との信頼関係はすでに構築されていると見なせる。ゆえに、その顧客は、クロスセルの施策に応じて、あなたの会社の他の製品を購入してくれる可能性が高いといえる。
だからこそ、多種の製品を取りそろえておくことが(それは大変な作業とはいえ)重要なのである。実際、取り扱う製品の種類の多さは、B2Bのソフトウェアビジネスで大きな成功を収めている大手IT企業に共通する特徴でもある。
クロスセルの方法としては、既存顧客に向けて販促メールを送付したり、ターゲティング広告の展開したりといった手法が広く使われている。それに加えて、アトラシアンのようなSaaSプロバイダーの間では、自社の製品内でメッセージを表示し、自社が提供する他の製品の試用を勧めるというレコメンデーションの手法がよく使われている。
この手法を通じて適切なユーザーに適切なタイミングで適切なメッセージを伝えることができれば、クロスセルで大きな成果を上げられる確率が高まる。
グロースレバー④ マーケットプレイスの設置
先に触れたフライホイール効果(=自然増のかたちで製品の顧客が増えていく効果)を手にするためのポイントの1つは、潜在顧客が製品を導入する際の「摩擦」を可能な限り小さくすることだ。法人組織に向けた製品の場合、ここでいう「摩擦」には「導入の手間」「導入費用の高さ」「導入効果に対する不安」「製品の機能が自社が欲するものであるかどうかの不安」などがある。
したがって「製品の最も一般的なユースケース」(参考文書(英語))にフォーカスを絞りながら機能を整え「摩擦の少ないセルフサービス方式」(参考文書(英語))によって製品の普及を図ることで、多くの新規顧客を獲得できる可能性が広がることになる。
ただ、製品の顧客が増えるに従って、製品の機能に対する新たな、そして細かな要望が増えていく。それらの要望を自社の独力で満たすのは難しく、それには多大な開発リソースと時間が必要になる。そこで検討すべきは、顧客やパートナーが製品をカスタマイズできる仕組みの提供だ。また、その仕組みの開発に成功したならば、製品を使うすべての顧客がカスタマイズ用のアプリケーション(アドオンアプリケーション)を購入できるマーケットプレイスを立ち上げると良い。
ちなみに、アトラシアンでは、アトラシアン製品をカスタマイズする各種アプリケーション(アドオンアプリケーション)のワンストップショップとして「Atlassian Marketplace」を立ち上げ、運営している。
このマーケットプレイスでは、アプリケーションの販売と更新による収益を上げている。そして、顧客企業がこのマーケットプレイスに自社で開発したアプリケーションを一度登録すると、その顧客は使用しているアトラシアン製品に深く関わるようになる。結果として、当該顧客の維持率が飛躍的にアップするのである。
グロースレバー⑤ 顧客トレーニングとプロフェッショナルサービス
仮に、あなたの会社の製品が、企業における特定の業務を効率化するためのSaaSアプリケーションであるとする。そうした製品は、顧客企業の全体にとっては必要不可欠なプロダクトではないかもしれないが、特定のチームにとっては、日々の業務をこなすのに欠かせないミッションクリティカルなツールであるはずだ。ゆえに、その製品を使用しているチームは、大抵の場合、「Atlassian University(英語)」が展開しているユーザー教育プログラムのように、ツールからより多くの価値を引き出すためのトレーニングを受けたいと望んでいる。したがって、その種のトレーニングの提供は、顧客満足度の向上につながっていく。
また、あなたの会社の製品が、企業全体にとってミッションクリティカルなツールであるならば、アトラシアンの「プレミアムサポートパッケージ」のようなサポートサービスを提供したり、製品の活用、ないしは管理のための適切な手法を顧客にアドバイスする「テクニカルアカウントマネージャー」をアサインしたりするなど、顧客の満足度を高めるサポートサービスを充実させ、顧客との関係強化に生かすことが重要となる。
複雑な状況を乗り切る
アトラシアンでは、上述した5つのグロースレバーごとに、それを専任で担当するチームが存在し、それらチームのすべてが顧客にアプローチしたいと望んでいる。ただし、 すべてのチームが顧客に同時にアプローチすれば、過剰なマーケティングメッセージによって顧客が圧倒されてしまい、すべてのメッセージに耳を傾けようとしなくなるリスクが強まる。
アトラシアンでは設立当初、クロスセルやアップセルの施策に対して、顧客がどう反応したかのデータを収集して分析する余裕がなかった。そのため、クロスセル、アップセルの施策のすべてが手探りの状態にあり「誰に対して、どのようなマーケティング施策を、どういったタイミングで打つべきか」の判断が勘を頼りに行われていた。それが現在は、クロスセル、アップセルの施策に対する顧客の行動データが一元的に収集・管理・分析されるようになった。アトラシアンでは、その分析を通じて顧客をセグメント分けし、適切な顧客にアップセル、あるいはクロスセルのメッセージが伝えられるようにしている。
このセグメント分けで、例えば以下のような顧客が洗い出される。
●「Jira」のユーザーライセンス数が1,000以上あり、かつ、アトラシアンと少なくとも3年間の取引実績があるにもかかわらず「Confluence」を試したことがない
こうしたセグメント分けは、経験則に基づいてターゲット顧客を決めるよりも効果的だ。また、自社の製品の販促活動を、データに基づいて行うのが早ければ早いほど、より良い結果が得られることになる。
ここでもう1つ、覚えておいていただきたいのは、異なるグロースレバーは、異なるかたちで収益に影響を与えるということだ。ゆえに、上記5つのグロースレバーを試す際には、それが財務モデルにどのような影響を及ぼすかを追跡できるようにしておくことが重要となる。また、その追跡によって、収益に占めるクロスセルやアップセル、そしてユーザートレーニングの割合がデータによって見える化される。これにより、何を優先するべきかが明確に見えてくることになる。
バランスを保ちながら成長を実現する
成長のためのプロセスは、綱渡りと同じくバランスを保つことが重要となる。例えば「5つのグロースレバーの中のどれを、どの程度の強さで引くのが最も効率的か」「顧客の不興を買わずにアップセルやクロスセルの施策を展開するには、どうするのが適切か」「新規顧客を獲得するための施策と、顧客のLTVを拡大する施策のどちらに、どれだけのリソースを投入するのが適切か」といった判断を、慎重に下していかなければならない。
こうした判断を下す際には、製品やマーケティング施策に対する顧客の行動データを分析し、顧客のニーズがどこにあるかを見定めることが重要となる。
ただし、事業を立ち上げてから間もない企業は、意思決定のための材料となる顧客データが十分に収集できていないはずである。
そのような場合には、自分たちの直感に頼らざるをえず、また、そうすることが適切である。製品やマーケティング施策に対する顧客からのフィードバックに耳を傾けながら、仮説検証と成長のためのプロセスを繰り返し実行していれば、収益の拡大という成果は後からついてくるはずだ。それを信じ、前進するしかないのである。