「引退国家」から復活するための道筋を示す
日本は、G7(主要先進7カ国)で初めて“引退した国”になった。米国では、そんなふうに言われ始めているよ──。本書の筆者、安宅氏は、あるパーティで米国の友人にこう告げられ、悔しさを表情に出すのを必死にこらえたという。
世界におけるビジネスの一線から退いた“引退国家”──。そう揶揄されてもしかたがないほどに、過去20年間、日本は成長・発展を止め、さまざまな指標で他国に抜き去られ、とても先進国とは言えないような状況に陥ってきた。本書でも指摘されているとおり、GDPの伸び率も、国民の生産性も、企業価値も、他の先進諸国や中国・韓国などの後塵を拝し、少子高齢化が進む中で、貧困が広がり、多くの子どもたち、若者たちから大学で学ぶ機会が奪われているという。
例えば、本書によれば、2017年の段階で単身を除く世帯の31%が貯蓄(金融資産)を有しておらず、その非所有率は発展途上の状態にあった1963年の値(22%)よりもはるかに高いという。これにより、3分の1に近い子どもたち、あるいは若者の才能や情熱が、単なる環境要因(=貧しさ)によって発揮される機会なく埋もれていく可能性が高いと、本書は憂いている。さらに、このトレンドがこのまま続いた場合、2035年前後には貯蓄を持たない世帯が50%に達し、まさしく「貧困国」の状態に陥ってしまうようだ。
一方の大学も国際的な評価を下げ続け、かつては世界の上位に位置していた日本の最高学府・東京大学ですら、2019年のランキングで世界42位・アジア6位にまで評価を下げているという。計算機科学(コンピュータサイエンス)における同大学の評価に至っては世界135位(それでも、日本の中では最高ランク)という惨憺(さんたん)たる状況にあると、本書では指摘している。
加えて、国の発展のために必要不可欠な研究開発投資額(国の科学技術予算)も過去20年間、凍り付いたように変化せず、2016年の段階で中国の3.7分の1、米国の4.7分の1の規模となり、科学技術で両国と勝負することがほぼできないような状況になっているようだ。しかも、国立研究所に対する国の基礎予算(運営交付金)も削られ続け、情報系の国立研究所を束ねる大学共同利用機関法人 情報・システム研究機構(著者が経営協議会委員を務める)についても、過去5~6年で1割以上も基礎予算が削られているという。
さらに、科学技術系の大規模な国家プロジェクトについても、1997年から2001年にかけて行われた(独立行政法人 産業技術総合研究所主導の)「リアルワールド・コンピューティング・プロジェクト」を最後に10年以上行われず、総額1,000億円(年間100億円×10年間)の予算がついた総務省・文部科学省・経済産業省の共同プロジェクト「人工知能技術戦略会議」が立ち上がったのは2016年のことだ。総額1,000億円の予算は大規模に思えるが、米国では、マサチューセッツ工科大学という一つの大学が創設した人工知能大学・大学院(2018年設立発表)の予算規模だけで約1,100億円に上るという。しかも、大型の国家プロジェクトは、人材育成の重要な場であり、それが15年間行われてこなかった“痛手”は大きいと著者は嘆く。
本書は、そんな日本が復活する道筋を示す一冊だ。過去20年間、IT、インターネット、そしてデータ、AI(人工知能)が引き起こしてきた革命的な社会・産業の変化の流れに乗れなかったこと、あるいは、乗ろうとしてこなかったことを、日本凋落の根本要因としてとらえ、「データ×AI」を駆使して再び日本が輝きを取り戻すためのすべを以下の章立てを通じて論じている。
- 1章 データ×AIが人類を再び解き放つ――時代の全体観と変化の本質
- 2章 「第二の黒船」にどう挑むか――日本の現状と勝ち筋
- 3章 求められる人材とスキル
- 4章 「未来を創る人」をどう育てるか
- 5章 未来に賭けられる国に――リソース配分を変える
- 6章 残すに値する未来
著者の安宅氏は、慶應義塾大学環境情報学部教授で、2016年から同大学の政策・メディア研究科 特任教授として「データドリブン社会の創発と戦略」を担当し、2018年9月から現職にある。
経歴は、東京大学大学院生物化学専攻の修士課程終了後、マッキンゼーで4年半のキャリアを積み、イェール大学脳神経科学プログラムに入学して博士の学位(Ph.D)を取得した。帰国後、マッキンゼーへの復帰を経て、2008年にヤフーに入社し、同社の研究開発部門を統括。2015年からは、情報・システム研究機構でビッグデータ専門人材育成懇談会委員としても活躍し、日本政府が打ち出した近未来社会ビジョン「Society 5.0」の策定にも大きく関与している。
著者の主著には25万部を突破し、ベストセラーとなった『イシューからはじめよ──知的生産の「シンプルな本質」』(英治出版)があるが、本書『シン・ニホン AI×データ時代における日本の再生と人材育成』も2020年9月時点で13万部を突破する人気書籍となっているようだ。その人気が示すとおり、本書の内容は、データサイエンティストとしても、経営をサポートするプロフェッショナルとしても、さらには人材育成を担う人としても、実績と経験が豊富な筆者ならでの主張が展開され、かつ、それぞれにデータの裏づけがしっかりとあるので説得力もあり、わかりやすく、非常に興味深い。とりわけ、日本をまだ、先進国の中でもいい位置にある国で、教育レベルも高く、かつ豊かで、これまでどおりの仕事の仕方を維持するだけで、今日の暮らしが維持できると考えているミドル層にとっては、とても刺激的で、認識を新たにできる書籍ではないだろうか。
復活の武器は世界トップクラスの妄想力
SF/怪獣映画ファン、あるいはアニメファンであれば『シン・ニホン』のタイトルを見て、すぐにピンとくると思うが、このタイトルは、アニメ『新世紀エバンゲリオン』でお馴染みの庵野秀明氏が脚本・総監督を務めた人気映画『シン・ゴジラ』にインスピレーションを得たものであるという。安宅氏は、日本のアニメのファンであり、本書の記述にもそれを感じさせるところが随所に出てくるが、いずれにせよ、『シン・ニホン』の『シン』には、『シン・ゴジラ』の『シン』と同じように「新」と「真」の意味合いが含まれているようだ。
『シン・ゴジラ』をご覧になられた方は、ご存知のとおり、この映画では破壊神とも言えるゴジラによって滅亡寸前まで追い詰められ、世界から見捨てられようとした日本を、サイエンティストと政治家・行政・自衛隊、産業界が一致協力して救う物語である。一方の本書のストーリーも、全てにおいて競争力を失い、滅びの道へと突き進みつつある日本を、「データ×AI」というテクノロジーの力とサイエンスの力、そして日本の人の力・叡智を結集することで救い、立て直そうというものだ。
著者によれば、「データ×AI」による産業・社会の変革の流れは、まだフェーズ1の段階──すなわち、データとAIの利活用が大半の産業に広がり、「データ×AI」による革新的なサービス業が生まれ始めているフェーズにあるという。
先の記述からもわかるとおり、このフェーズ1では、日本は完全に出遅れており、戦いの土俵にも上がれていないし、上がっていない。ただし「データ×AI」の二次的な利用(一般的な利用)が進む第2フェーズの戦いはこれからであり、そこからレースに参加すれば、日本には世界に勝つチャンスが大きくあると、著者は言う。
その根拠の一つは、日本のアニメが世界に大きな影響を与えたことからもわかるとおり、日本人には世界トップクラスとも言える「未来を妄想する力」、あるいは、自分たちが望む未来を「構想する力」があるからだという。
未来は、「夢」と「技術」「デザイン」のかけ合わせによって創られていくもので、その夢を描く力や妄想力が日本人にはもともと備わっており、それゆえに、優れたアニメ作品やゲームを生み出すことができる。そうした夢や妄想を、技術(データ×AI)を巧みに使いながら形にする力を持てば、「データ×AI」の活用が新たなフェーズに入るこれからの時代において日本は再び輝きを取り戻せるというわけだ。
また、日本は歴史的に先行者に猛スピードで追いつき、追い越していくキャッチアップを得意としており、その点でも巻き返しの力があると著者は言う。産業・企業にしても、他国の産業・企業が、当たり前の戦略として推進してきたIT、データ、AIなどの利活用にほとんど取り組んでこなかった。したがって、日本の産業・企業は、今日の産業・企業として当たり前のことをやりさえすればよく、これまで何もしていない分、“のびしろ”は大きく、例えば、テクノロジーの力を借りて、労働生産性を他の先進国並みにするだけで、状況をガラリと変えられる可能性が高いと、著者は説いている。
復活のカギは人材育成とリソース配分の刷新
もちろん、こうした復活の道筋を突き進むうえでは、解決すべき課題もある。なかでも、著者が挙げる復活の重要なカギが、人材育成と国のリソース配分の適正化・刷新である。
人材育成については、小中高校の教育のあり方を見なおし、データ活用やAI活用に関するリテラシーを向上させるのはもとより、答えのある問いへの答えを出すという、AIで代替可能な能力を高めるのではなく、自ら課題を発見し、データやAIなどを使って解決する能力や自分なりの夢を描く力を育む教育に力を注ぐことが必要であるという。いわば、クイズへの解答をすばやく出すだけのマシンのような人材を育てるのではなく、マシンを使って自分の夢や妄想をかたちできるような人材を育てることが重要であるということだ。
また、人の個性・多様性を否定するような校則や、軍事教練の名残(なごり)としか思えない号令の類(たぐい)は即刻廃止にすべきで、これらは他国の学校教育ではありえないことであると、著者は訴えている。
一方、企業においては、(当然のことではあるが)未来は若手の活躍にかかっており、30代・40代のミドルマネジメント層は若手の挑戦のサポート役に徹し、かつ、自らも「データ×AI」時代にふさわしいスキルを身につける必要があると筆者は説く。とりわけ、現状維持を正しいことと思い込み、過去の経験や成功体験に基づいて、若手の挑戦に待ったをかけ、会社の未来をつぶすような存在になることは是が非でも避けるべきと著者は言う。
さらに、未来を担う人材を育成するうえでは、先に触れた貧困の問題から、学びの機会を奪われている多くの子どもたちを救う制度の確立が急がれるほか、大学や公的な研究機関などに対する投資を増やしていくことも必須であると著者は強く訴える。
もちろん、そのためには原資がいるが、その確保に向けて国の予算の配分──つまりは、リソース配分を変える必要があるとする。具体的には、日本の国家予算の多くを占める社会保障費(社会保障給付費)を削り、この国の未来につながる若者の育成や科学技術の発展への投資に振り向けることが不可避という。
人生100年時代と政治への関心
本書の中で筆者が指摘するとおり、例えば、2019年度の一般会計歳出・歳入の構成を見ても、歳出合計99兆4,291億円の34.2%(33兆9,914億円)──つまりは、全体の3分の1以上が社会保障給付費によって占められている。
ご存知のように、社会保障給付費は「年金」「医療費」「福祉その他」から構成され、全体は120兆円を超えている(2018年度の予算ベースでは121兆3,000億円)。内訳は「年金」が全体の5割弱(2018年度予算ベースで46.8%/56兆7,000億円)で、医療費が3割強(同32.4%/39兆2,000億円)、「福祉その他」が約2割(同20.9%/25兆3,000億円)といったかたちだ。その多くを、現役世代が支払う社会保険料(2018年予算ベースで70兆2,000億円)と地方負担金(同13兆8,000億円)で賄っているものの、それでは足りず、税収に基づく一般歳出に組み入れているわけである。その歳出におけるポーションが、上記のとおり、歳出全体の3分の1以上を占めているというわけだ。
そして年金は、シニア世代に対して支払われるものであり、医療費の多くもシニア世代のために使われている。また、社会保障給付費に次いで一般会計歳出で大きなポーション(2019年度で23.6%)を占めるのは、国の借金の支払いに相当する国債費である(2019年度で23兆5,082億円)。
よって、社会保障給付費の部分にメスを入れて、将来につながる投資に資金を振り向けないと、日本はシニア層と過去(借金)のためにお金を使いすぎて衰退を止められなかった人類史上初の大国として歴史に名を残すことになると、著者は主張する。
また、著者によれば、メスを入れると言っても、それほど大胆なものではなく、社会保障給付金全体(約120兆円)の2%程度を、経済的に苦しい大学生の学費・生活費の補助をはじめ、科学技術予算の補正、大学・国立研究所に対する交付金の増額などに振り向けられればそれでいいという。そしてそれは、日本人の平均寿命が100歳に届こうとする中で、元気で、働く意欲もあり、熟練のワーカーでもあるシニア層を“現役世代”から切り離そうとする社会の仕組みを刷新し、シニア層を、社会保険給付金を消費する側ではなく、生み出す側(つまりは、働き手)にシフトさせることで十分に実現が可能なものであるとする。ちなみに、現在の生産年齢は15歳~65歳未満と定義されているが、これを改めて20歳~90歳未満にしてもいいのではないかと、著者は指摘している。
おそらく、こうした考え方に異を唱える向きもいるだろう。ただし、子どもたちの未来のために頑張って欲しいと言われ、かつ、自分の活躍できる場があるのであれば、相当数のシニア層が喜んで働く可能性は高い。人は社会の動物であり、社会に貢献する場を本能的に求めているからである。しかも、平均寿命が100歳に近づくなかで、国民の全員が65歳で現役を退き、働かないとすれば、各年代の人口が仮に等しくても、国民の30%以上が生産活動に参加しないということになり、それは相当無理のある社会と言える。そう考えれば、著者の指摘は正論であり、至極当然の主張と言える。
とはいえ、未来に投資するための財源を社会保険給付金だけに求めるのが本当に正解かどうかについては意見の分かれるところだろう。要は、そのほかにも、国の未来にはつながらない歳出の無駄があるのではないかという疑問が沸き上がっても不思議はないということである。加えて、国の将来は、政治によって左右されるので、過去20年間、日本の成長・発展が止まり、子どもの貧困や貧富の2極化を進行してしまったことに対して、政治がどう作用したのかについても、本書内での言及がもう少しあっても良かったかもしれない。
というのも、そうすることで若い世代の政治への関心が少し高まる可能性があると思えるからである。日本は、民主主義国家であるので、やはり若い世代の政治的関心の薄さは、国の将来にとっては憂慮すべき点ではないだろうか。
総務省によれば、国政選挙の年代別投票率は、2017年10月に行われた第48回衆議院議員総選挙で、10歳代が40.49%、20歳代が33.85%、30歳代が44.75%と、全年代平均(48.80%)よりも低く、60代の70.04%、70代以上の60.94%に比べるとかなり低い。
政治は“数”が全てとされているが、そもそも若い世代は、シニア世代に比べて絶対人口が少ない。それに加えて政治への関心が低く、投票率が低いとなれば、政治は年代の高い人々に支持される方向へと自ずと傾いていく。
ちなみに、2017年10月における20代・30代人口は2,750万人で、60代以上の人口(4,297万人)の3分の2以下だった。それと上記の投票率とをかけ合わせ考えると、20代・30代で国政選挙に参加した人の数はおよそ1,009万人で、60代以上で選挙に参加した人の数(およそ2,780万人)のほうが2.5倍以上も多い計算になる。
これでは、若い世代の声を国政に届かせようとしても、なかなか難しいのではないだろうか。こうした状況が続くと、若い世代に苦難を強いるような国政が行われても、それに気づかせてもらえない可能性すらある。自分の国のあり方について、自ら調べて、自分たちの世代、あるいはこの国の未来にとっての課題を自ら見出し、自分なりに解決の方策を考え、その方策に基づいたかたちで、政治に対する自分のスタンスを決める──。おそらく、その結論の中では、国政選挙に参加しないという選択肢は選ばないはずなのである。