ソフトウェアによるビジネス革新の要諦を伝える
本書は、ビジネス革新、あるいはデジタルトランスフォーメーション(DX)を推進するための指南書と位置づけられる。
著者は、テクノロジー(IT)による企業・社会の変革を支援するTably株式会社の創設者兼代表取締役の及川 卓也氏。同氏は、1988年にDEC(Digital Equipment Corporation)日本法人に入社し、キャリアを積んだのち、マイクロソフトで日本語/韓国語版Windowsの開発を指揮し、2006年に入社したGoogleでは、GoogleニュースのプロダクトマネジャーやGoogle Chrome/日本語入力システムのエンジニアリングマネジャーを務めた。
本書では、そうした同氏の豊富な経験と知見に基づきながら、ソフトウェアを活用してビジネス革新/DXを実現していく方法が具体的に記されている。記述は明快であり、特にソフトウェアのエンジニアやIT業界のビジネスパーソンは、これからのデジタル時代をどう生き抜いていくべきかの参考書として重宝するに違いない。実際、本書を読むことで、ソフトウェア開発のあり方が、今後どういった方向に進み、その中で、いかなるスキル/ノウハウを身に付ければよいかが理解できるはずである。
また本書では、著者がDECに入社した1980年代末から、今日に至る約30年間の歳月の中で、企業IT(主としてソフトウェア)がどういった進化の道筋をたどり、その中で、日本の企業群が、いかなる理由でソフトウェアによるイノベーションの波に乗り遅れ、国際競争力を低下させていったのか、そして今日、なにゆえ、米国や中国の企業にDXで大きく水を開けられているかの歴史的経緯もつぶさにとらえることができる。
その意味で、20年前、あるいは30年前のIT業界を体験していない現在の若手のエンジニアが、企業ITの歴史を整理して学ぶ教科書としても有用であろう。少なくとも、GAFAやマイクロソフトのような存在が日本でなぜ生まれなかったのか、また、なにゆえに、日本の企業がIT活用の先進性で中国企業に追い抜かれ、差をつけられたのかは理解できるはずである。
“強い開発組織”の作り方、エンジニアのキャリア形成のハウツーも指南
一方で、非IT系の一般企業(本書では「事業会社」と呼んでいる)の経営者やビジネスパーソンにとっては、本書の内容はハードルが高い。もちろん、この本はソフトウェア開発の解説書ではなく、あくまでもビジネス書であるので、読むのに深い技術知識は必要ではない。とはいえ、例えば、TCP/IPやオープンソースソフトウェア(OSS)、コンテナ、ウォーターフォール、アジャイル、DevOpsといったソフトウェア関連の基礎用語を聞いて、それが何かをすぐに理解できないと本書に書いてあることの多くはまず分からない。
また、そもそも本書における「ソフトウェア・ファースト」の定義は、ソフトウェアを“手の内”に入れて、ビジネス革新を巻き起こすことである。ここで言う、“手の内に入れる”とは、要するに、事業会社によるソフトウェアの「内製化」を指している。
企業ITの業界に身を置く方ならば、この“内製化”が、日本のIT産業、あるいは事業会社にとって、どれほど大きな変化かは、肌感覚としてすぐに理解できるはずである。例えば、本書でも指摘されている「(内製化が進むことで)SIerの旧来型のビジネスモデルが瓦解する」といったことは、言われなくてもすぐに分かる。
ところが、企業ITに特に関心がなく、自社のIT部門が普段、どのような仕事をしているのか、あるいは、自分が日常業務で使用しているシステムが、誰によって作られ、どうして毎日動いているかを知らないような人にとっては、ソフトウェアの内製化という変化が持つ意味も意義の大きさも、実感として理解できないはずである。
その観点から言っても、本書はあくまでも、IT、あるいはソフトウェアのビジネスに携わっている人、あるいはそれに関して一定の知識を持った企業人のための指南書であり、メインのターゲット読者はソフトウェアテクノロジーによって身を立てようとしているエンジニアやソフトウェアサービスで起業を目論んでいるエンジニア、さらには、デジタル技術で自社の事業を本気で変革したいと考えているビジネスパーソンであると見なすことができる。企業ITのことにあまり関心・興味のない方がいきなり読んで内容を深く理解できるような本ではない。
実際、記述のメインも、ソフトウェア(=ソフトウェア・ファーストの実践)によって、優れたサービス(プロダクト)をどう開発していくか(=第3章)、“強い開発組織”をどう築けばよいのか(=第4章)、さらには、ソフトウェアエンジニアは今後、自らのキャリアをどのように構築していけばよいのか(=第5章)といったテーマで構成されている。
ちなみに、著者は本書の中で、日本の経営層のIT(ソフトウェア)軽視・不理解が、日本企業の国際競争力を低下させ、産業のソフトウェア化(サービス化)という時代の流れ、あるいはDXへの対応を遅らせた根本原因であるとして強く非難している。そして、IT/ソフトウェアはあくまでもビジネス革新の一つの道具にすぎないとしながらも、経営陣の中にソフトウェア開発の知識・経験のある人間が一人もいないような企業は、これからの市場競争の中で淘汰される可能性が高いとも指摘する。
例えば、中国深センのプリント基板(PCB)工場では、幹部にWebサービス開発の経験者がいる場合が多く、ある工場では、顧客満足度の向上に向けて、受注をオンラインで完結させ、顧客から受け取ったCADデータを通じて受注データのレビューを行い、工場で基板を製造、製品に付与したバーコードにより、発送後のトラッキングも行うといった高効率なプロセスを確立させているという。つまり、中国工場の強さは、今や、人件費の安さだけではなく、ソフトウェア・ファーストの考え方で顧客体験重視のDXを推進している経営戦略にもあるというわけである。
著者によれば、日本のソフトウェアエンジニア自体は優秀であり、DXでの遅れを取り戻し、競争優位に立てる見込みは十分にあるという。その言葉を信じて本書を読み、分からない技術用語は都度、調べて理解し、知識を広げていく──。一般のビジネスパーソンにも、そうした努力が必要な局面に至っているのかもしれない。