『ジョイ・インク 役職も部署もない全員主役のマネジメント』
作者:リチャード・シェリダン/翻訳:原田騎郎、安井力、吉羽龍太郎、ほか
出版社: 翔泳社
出版年月日:2016/12/19
“米国で最も幸せな職場”のCEOが経営の知恵を伝える
本書は、「働くことに喜びを感じられる会社」、つまりは、「ジョイ・インク(Joy Inc.)」をどうのように築けばよいかを記した経営指南書である。
著者のリチャード・シェリダン氏は、米国のソフトウェア開発会社メンロー・イノベーションズ社のCEO兼共同創業者。メンロー社は、「米国で最も幸せな職場」として知られ、2003年の創設以来、着実な成長を遂げながら、組織の独創性や柔軟性、民主的な文化を評価する国際的なアワードをいくつも受賞してきたという。
そのため、シェリダン氏は、中小のソフトウェア開発会社のCEOでありながら、世界屈指の大企業のビジネス会議に幾度も招聘され、経営やチームマネジメントの講義を展開してきたようだ。
そんなシェリダン氏が、自身の経験に基づいた“ジョイ・インク”作りの“知恵”、あるいはノウハウを詰め込んだ一冊が、本書である。
原点はエクストリームプログラミング
本書の1章では、「僕が喜び(Joy)にたどり着くまで」と題し、著者がメンロー社設立に至る経緯が、プログラミングの“虜(とりこ)”になった小学生時代から綴られている。
実のところ、ジョイ・インク作りのハウツーだけを知りたい方は、第1章を読み飛ばして、2章から読んでも、あまり問題はない。だが1章は、物語としてなかなか面白い。そのあらすじはこうである。
一人の天才的なプログラマー(著者)が、会社組織でキャリアを重ねる中で、プログラムをする“喜び”を奪われ、失意の底に突き落とされる。その失意の中で“光”を見つけ、会社を急成長させるが、急成長した会社をシリコンバレーの企業が買収。その企業がインターネットバブルの崩壊とともに破たんし、会社の英雄だった著者は一転、職を失う。それを契機にメンロー社を起業。働く誰もが喜びを感じられるジョイ・インクを目指す。
喜びから失意へ、失意から復活へ、復活からまた破たんへの繰り返しには、リアルなストーリーならではの意外性もあり、インターネットバブル当時の米国ソフトウェア業界のあり様も見えて興味深い。
ちなみに、著者が見つけた“光”とは1999年に登場した「エクストリームプログラミング」手法である。アジャイル手法の原型とも言える手法で、プロジェクトを小さな単位のサイクルに分けて管理し、常に二人一組で開発作業に当たる。開発部門のトップだった著者は、大多数の部下たちから猛反発を受けながら、ごく少数の部下たちと、廃業した工場の、何の間仕切りもない、ガランとしたスペースを使ってエクストリームプログラミングの実験場を立ち上げる。そこで働く部下たちが喜びに満ち、作業がどんどんと進むことから、反対派も工場にいつくようになる。気づけば実験場がメインの開発現場となり、会社の業績がみるみる上向いていった。つまり、この工場がメンロー社の原型になったというわけである。
“働きがい”経営の手本
今日、日本においても、“従業員体験”や“従業員エンゲージメント”など、社員の働きがいや働く喜びを経営の柱に据える手法に注目が集まっている。
本書は、そのきっかけを作った一冊といえ、2章以降でふんだんに紹介されているメンロー社の職場のあり方や仕事の進め方、組織運営のあり方は、従業員第一主義を掲げる企業の手本ともなっているようだ。例えば、従業員による働きがい、あるいは働く喜びを重視し、成功を収めている企業には、「間仕切りのないオープンなオフィス」や「情報の透明性」「社員同士の密接なコミュニケーション」「上下関係のないフラットな組織」「社員同士が互いに評価し合う(あるいは、称え合う)制度」、さらには、「能力よりも、企業文化への理解や共感の度合いを重視して人を採用する」といった特徴が見られている。それらのほぼ全てが、メンロー社の特色として本書に記されている。
まず、メンローのオフィスは地下の駐車場を再利用したもので、人や組織を隔てる間仕切りは一切なく、社員たちはその開かれた空間で自由に働いているという。オープンなのは物理的な空間だけではなく、メンロー社内では仕事上の情報の共有/開示が徹底されている。ゆえに、失敗やミスを隠ぺいすることも許されず、逆に、失敗やミスを追及する文化もない。社内の一つの標語は「すばやくたくさん間違えよう」である。
また、オープンなスタンスは、顧客に対しても同様で、作業の進捗を顧客と全社員に報告するイベントが定期的に開かれている。さらに、メンローには組織階層がなく、上司も部下も存在しない。
そんなメンローの働き方の基本であり、著者が最高のマネジメント手法と呼んでいるのが、エクストリームプログラミングの手法でもある「常に二人一組のペアで作業に当たる」というものだ。二人が一台のコンピューターを共有し、一日中、同じタスクを一緒に作業する。ペアの組み合わせは毎週入れ替わり、マネジメント上のゴールは、従業員の全員がほかの全員と一緒に仕事ができる機会を設けることだという。これによって、知識・スキルの属人性が排除されるほか、異なるスキルを持った従業員同士が互いを高め合うスキルアップの文化が醸成されると本書は説く。また、仕事上の孤独もなく、一方で、仕事に対する無責任な行動も自ずと取れなくなるという。
このペアリングの手法を含めて、本書に記されているジョイ・インク作りの手法は、どれも納得がゆき、合理性や効率性を感じるものが多い。とりわけ、ペアリングの手法は、明日にでもチームや部門に取り入れたいと思う方がいるのではないだろうか。ただし、よくよく考えると、このペアリング手法を機能させるには、組織構造がフラットであることが前提となり、一定の歴史と規模を持ち、長く階層構造の中で組織を運営してきた日本企業にとっては、たとえメンロー社と同じIT関連の企業であっても、なかなか実践の難度は高そうである。
とすれば、本書に記載されるメンロー社の取り組みや働き方はあくまでも参考として、背後にある考え方や、なぜそうすると、メンロー社の従業員が喜びややりがいを感じるかを突き詰めながら、自社での応用の方法を考えるのが適切かもしれない。
少なくとも、上司・部下の関係を越えて社員同士がフランクに“ワイガヤ”できる文化がなければ、ガレージにオフィスを構えても、誰も喜びは感じず、かえって居心地が悪くなる。また、信頼関係のない上司・部下がペアを組まされても、部下が不幸になるだけで終わりかねない。さらに、市場の変化に対応したいからと、官僚的な階層組織をいきなりフラットな組織へと変えても、一人ひとりの意識や組織の文化も一緒に変えなければ、何も起こらないはずなのである。