アトラシアン本社の情報サイト『WORK LIFE』から新着コラム。メインライターのサラ・ゴフ・デュポン(Sarah Goff-Dupont)が、新型コロナウイルス感染性が引き起こしてきた危機な状況に対処するためのアジャイルマニフェスト的なアプローチについて説く。

いまだカオスのただなかにあり

世界は新型コロナウイルス感染症(以下、コロナ)が引き起こした混沌(カオス)のただなかにある──。読者の皆さんは、そのように感じていないかもしれないが、少なくとも私は、いまの状況にカオスを強く感じている。

例えば、私が日々の仕事をこなす家では、6歳と9歳の子どもたちが自宅学習を行っている。また、家族全員が、コロナから安全でいるための行政からの要請や指示、暮らし方の提案に常に耳を傾けている。これらの全ては、あまりにも非日常的で、カオスを感じずにはいられない。

このようなとき、私たちは、先行きが見えないカオス的な状況から何とか抜け出したい、あるいは、秩序を取り戻したいという衝動にかられる(たとえ、その秩序が、自分の頭の中にしか存在しないものだとしても)。

そこで必要とされるのが、カオス的な世界を、自分なりに整理してとらえ、心の平安を取り戻すための手段だ。ある人は、その手段を宗教の経典に求めるかもしれない。認定スクラムマスターであり、かつオタクでもある私は、アジャイルソフトウェア開発宣言(以下、アジャルマニフェスト)的なアプローチによって、カオスな日常から精神的に脱しようと考えた。

「それって少し滑稽じゃない?」──。多くの人が、そう言うかもしれない。確かに、そう思えるだろうが、これから私が述べることに共感してくれる、あるいは、心地よさを感じているくれる人も、きっといるはずである。

そもそも、アジャイル開発の基本は適応である。例えば、ワークフローが機能していないのであれば、それを改善する。また、年間のプロジェクト計画が軌道から外れそうな場合には、計画をより小刻みにする──。そうしたアジャイル開発のマニフェストは、2001年に策定されたものだが、仮にいま、コロナ禍の下で、マニフェストが記されたとすれば、以下のような記述になるはずである(マニフェストの原文について本稿末を参照されたい)。

1つのグローバルコミュニティとして働き、暮らすために、私たちはレジリエンスに富んだ方法を見つけ出そうとしている。この共通の体験を通じて、私たちは以下の価値に至った。
・プロセスよりも個人同士のつながりを
・見た目の美しさや約束よりも相互信頼と説明責任を
・競争よりもコラボレーションを
・計画に従うよりも変化への対応を
価値とする。すなわち、左記のことがらに価値があることを認めながらも、私たちは右記のことがらにより価値をおく。

プロセスよりも個人同士のつながりを

プロセスやワークフローは意外ともろく、有事が引き起こした一つの問題によって、全体があっさりと瓦解してしまうことが多い。

例えば、コロナ禍の下、多くの食肉加工工場が、労働者の安全を確保しながら操業を続けることに相当の苦労を強いられている。そう考えれば、食のサプライチェーンプロセスがいつ崩壊しても不思議はないとの結論に至るはずだ。

また、経費の申請から、承認を経て、経費が支払われるまでのワークフローには、大抵の場合、承認者として直属の上司と経理の担当者がかかわる。そして恐らくは、この人達が申請者に対する経費支払いの承認権限を持った唯一無二の存在である。ゆえに、その中の一人がコロナに感染して入院してしまった場合、経費申請が滞る事態に陥りかねない。

一方、人と人とのつながりには、このような脆弱さはない。むしろ、有事によるストレスが強くなればなるほど、個人同士の関係が強まっていく可能性が高い。

これまで、プロセスやワークフローと対比させて、個人的な関係を評価するような試みは、私も含めて誰もしたことがないはずである。ただし、コロナの流行以降、仕事の中でも、個人同士のつながりの大切さを感じる場面が増え、無意識のうちに(あるいは、本能的に)個人的な関係を頼りにし、そのありがたさをしきりと強調し始めているように思える。実際、コロナ禍の下では、私たちは、親しい友人や同僚との接触を制限されているものの、互いのチャットやSNSで連絡を取り合い、それぞれの置かれた境遇や想いに共感し、支え合っている。そうした人と人との関係は、これから何年もの間、自分たちに多大な恩恵をもたらしてくれるはずである。

見た目の美しさや約束よりも相互信頼と説明責任を

米国に住む私たちは、ここ数カ月の間、悲しいニュースと向き合い、それらを心の中で処理する必要に迫られてきた。それは、多くの人にとって感情的な新陳代謝の限界を超えるものであったかもしれない。そして、このような状況下では、平常心を保って、仕事への集中力を維持し、十分な労働力を提供するのは難しいはずである。

私たちはここ数年来、ソーシャルメディアのフィードを通じて、さまざまな人の暮らしぶりや生き方を目の当たりにしてきた。そう、人々の日々の暮らしというのは、案外、乱雑なものなのである。自分にしても、同僚とのビデオ会議の最中に、子どもたちが乱入してきたり、その背後に見えるキッチンコーナーには、洗っていない朝食のお皿が積み上げられている。それはもう乱雑以外の何物でもない。ただし、大切なのは本質であって、見た目の美しさ、完璧さではないのである。

いまは、要望を十分に満たせると約束できる余裕はないし、自分の不完全さを、見た目の美しさで覆い隠す時間的なゆとりもない。とにかく、ともに働く同僚たちに対して、よりオープンに接し、お互いの状況を確認し合いながら、助け合っていかなければならない。それ以外に、いまの状況は乗り越えられないのである。

競争よりもコラボレーションを

私たちが直面している課題は、一人の力や一組織、一国の力で解決できるような事態ではない。それぞれが自分に与えられた役割、あるいは自分ができることを担いながら、一致協力して事に当たらなければ、これほど大規模なパンデミックには太刀打ちできない。

日々の暮らしの中では、すでに地域のコミュニティが協力して、近くの病院のためにマスクを縫い、届けたり、高齢者へのコロナ感染のリスクを低減させるべく、食料品の買い出しを代行したりしている。

また、アトラシアンは、パートナー企業やオーストラリア政府と共同で、コロナ関連の最新情報を共有するためのモバイルアプリを一週間で完成させ、リリースした。さらに、平時でのスマートフォン市場でし烈なシェア争いを演じているApple社と Google社ですら、タッグを組み、コロナ感染者が誰と接触してきたのかをトレースし、感染拡大を抑止するモバイルテクノロジーの開発を進めている。

社会の状況が最悪であるにもかかわらず、平時での関係を超えたところで、こうしたコラボレーションが数多く見られる点は、とてもすばらしいことに思えるし、新鮮な驚きでもある。コロナ禍が過ぎ去り、平時に戻った際にも、優れたライバル企業同士のコラボレーションが継続されると考えるのは期待し過ぎかもしれないが、私はそう願っている。

計画に従うよりも変化への対応を

このフレーズは、アジャイルマニフェストを初めて読んだ際に、私が最も刺激を受けた一文である。

自分の属す産業や自分の年齢、好きなビートルズのアルバムがどうあろうと(ビートルズがそもそも嫌いでも)、私たち全員が、変化に対してスピーディに対応することを強いられている。実際、今回のコロナ禍では、オフィス中心で働いてきたナレッジワーカーと、そうしたスタッフを雇用する企業は、リモートワークへのすみやかな適応が求められ、子どもたちの親は、いきなり教師の代わりを務めなければならなくなり、美容師までもがバーチャルの世界に行ってしまい、自分たちで髪を切る必要にも迫られた。

しかも、コロナ禍によって、働く場所を奪われ、より少ない予算で生計を立てなければならなくなった人も大勢いる。ゆえに、一日でも早く、全てビジネスが再開されることを願うばかりだが、依然として、状況の変化を注視して、好転を待つというアプローチをとらざるをえない。言い換えれば、私たち全員が、短期間の計画を小刻みに回しながら、状況の変化にすみやかに対応していくという、アジャイルな生き方を迫られているわけだ。もちろん、その取り組みの中で、精神と肉体、そして家計面での健康状態を適切に保つことは簡単ではない。ただし、変化への対応力がカギを握ることは間違いない。

いま、世界中の誰もが、いつ、コロナ流行前の日常に戻れるかを知りたがっている。ただし、それがいつになるのかは誰にも予測できない。あえて言えることは、コロナを経験したことで、次の時には、計画面でも精神的にも、より適切に対応できるのではないか、という事だろう。

アジャイルソフトウェア開発宣言

私たちは、ソフトウェア開発の実践、あるいは実践を手助けをする活動を通じて、よりよい開発方法を見つけだそうとしている。この活動を通して、私たちは以下の価値に至った。

プロセスやツールよりも個人と対話を、
包括的なドキュメントよりも動くソフトウェアを、
契約交渉よりも顧客との協調を、
計画に従うことよりも変化への対応を、

価値とする。すなわち、左記のことがらに価値があることを
認めながらも、私たちは右記のことがらにより価値をおく。

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