「日本の教育は危機的な状況にあり、大きな転換を迫られています」──。こう語るのは、教育ジャーナリストで大学コンサルタントの後藤健夫氏だ。日本の教育にどのような転換が必要とされているのか。それはなぜなのか。後藤氏へのインタビュー内容を、前・後編の2回に分けてお届けする。

後藤健夫氏
教育ジャーナリスト
大学コンサルタント
プロデューサー
Pearson Japan高等教育部門 顧問

大学卒業後、河合塾に入社。のちに大学コンサルタントとして独立し、有名大学のAO入試の開発、 入試分析・設計、情報センター設立にかかわり、早稲田大学法科大学院設立に参画。元・東京工科大学広報課長・入試課長。『セオリー・オブ・ナレッジ―世界が認めた「知の理論」』(ピアソンジャパン)を企画・構成・編集。『大学ジャーナル』の編集委員も務める。

日本の教育はアジア諸国の3周遅れ!?

編集部:先に(前編で)、日本の教育では明示的に論理的な思考の訓練が行われてこなかったとお聞きしました。それゆえに、論理的に物事をとらえるのが苦手で、正解ばかりを求めていき、会議の場で精彩を欠くことが多いともお話しいただきました。それを聞いて考えたのですが、そもそも日本語の構造が、論理的な思考に向いていないことも、論理的思考を妨げてきたのではないですか。

後藤氏(以下、敬称略):そのとおりです。だからこそ、英語力が大切で、英語を思考の道具として操れるようにしておく必要があるのです。ところが、日本の英語教育は、アジア諸国の周回遅れどころから、3周遅れぐらいの差があると言われ始めました。実際、2017年度におけるAPU(立命館アジア太平洋大学)のアジアからの留学生の英語力を見ると、ほとんどの国で受験者の平均がIELTS(*1)のスコアが6.0以上。これは、CEFR(*2)のレベルで言えば、B2レベル上位の能力です。しかも、150人を超えるベトナムの受験生のIELTS の平均スコアは実に7.0で、これはほとんどネイティブ並の英語力です。その一方、日本の学生の中でIELTS スコアが6.0を持つ向きはほとんどいません。東京大学では最近になって受験資格としての英語力をA2に定めましたが、本来は入学時には全員がB1、B2のレベルにあって然るべきなのです。他のアジア諸国の学生がそうなのですから。

*1 IELTS:International English Language Testing Systemの略称で、国際的な英語検定の1つ
*2 CEFR:Common European Framework of Reference for Languages(ヨーロッパ言語共通参照枠)の略称。ヨーロッパ全体で外国語の学習者の習得状況を示す際に用いられるガイドライン。最低A1~最高C2までの6段階のレベルに分かれる。

編集部:それは国際バカロレア(IB)的アプローチを採用するしない以前の話のようにも聞こえます。どうして、そこまでアジア諸国との差がついてしまったんでしょうか。

後藤:一つは、日本では最高ランクの学問を母国で学べることです。アジア諸国の中には、自分の学びたい学問を究めるには、英語を使わなければならない国がほとんどです。その辺りの環境の違いが、日本とアジア諸国の学生における英語力の差を生んでいると言えます。

編集部:とはいえ、3周遅れというのは、あまりにも違いすぎると感じますが。

後藤:ええ、だから文部科学省でも、英語教育に力を注ごうとしているわけです。それでも、今のところ大きな改善が見込めないのが現実です。

編集部:その辺りは、国際バカロレア(IB)的なアプローチの採用によって変わっていくのでしょうか。

後藤:何とも言えませんね。言語においては複数言語の修得を求めます。言語はコミュニケーションにおいて欠かせないものですから。さらに言語は文化と結びつきます。文化が異なる人たちを理解するためには言語教育はとても大切だと考えられています。さらに、IBの教育は、学問の知識ではなく概念を学ぶためのもので、ある意味で、学び方を学ぶためのものです。概念を知り、面白いと思えば、人は自ずと探究的になり、知識を身に付けていきます。そして新しい知識を得たとき、これまでの知識が再構成され、課題解決に役立てられるようになるわけです。

編集部:何事も概念を知っても興味を抱かなければ、勉強はしないと。

後藤:ええ、そのとおりです。そもそもIBは万人の学力を底上げするものでは決してないのです。概念を学ぶ段階で、その学問に興味を持たなければ、探究心も芽生えず、そこですべてが終了です。その意味では、IBは学ぶ人を選ぶ教育プログラムと言えますし、IB認定の取得を単なる学生集めの道具として使おうとすると、IBについていけない生徒が続発する恐れがあるのです。

とはいえ、これからも知識量は爆発的な勢いで増えていきます。歴史の知識にしても、1日経つごとに新しい歴史は生まれるわけで、1日ごとに知識量は増えるので、知識を追いかけてもなかなか追いつきません。ですから知識ではなくその集合体である概念を理解することはとても大切です。逆に、それがないままに知識だけを詰め込もうとしても、無理がありますし、実世界ではあまり役に立たないでしょう。実際、社会的な課題は数学だけで解決できるわけでも、英語だけで解決できるわけでもありません。にもかかわらず、教員免許試験はいまだに特定の学問の専門性を求めています。これからは、特定教科だけを教えるのではなく、他の教科に越境することが求められるようになるはずです。

日本教育は崖っぷち

編集部:一方の大学側はどうなのでしょうか。例えば、入学者選抜のあり方を、受験者の思考力、あるいは問題解決能力を問うようなものへと変えようとする動きはあるのでしょうか。

後藤:もちろん、あります。そもそも、正解が一つとは限られなくなってきた社会において、一つの正解を求めるような試験問題を出し続けても意味はありませんから。ですから今後は、受験者の思考力や問題解決能力を問う記述式の問題が増えていくでしょうし、それに合わせて、高等学校教育のあり方も、知識の一方的な詰め込みではなく、概念に対する理解を深めたり、問題解決能力を養ったりすることへと向かうはずです。もっとも、それで本当に日本の大学生の学力は底上げされるとは限りませんが。

編集部:それは、なぜなのですか。

後藤:日本の少子化が深刻で、多くの大学にとって入学者数を確保することが最優先だからです。実際、AO推薦入試は、低倍率で実質的な審査はほとんど行われていません。ですから、中下位層にいる高校生たちの学習意欲がどんどん減退し、結果として、平均点が下がり、実質的な合格ラインも下がるといった相対評価の負のスパイラルに陥っているわけです。本来的には、絶対評価を採用し、「うちの大学では、このレベルの学生に勉強して欲しい」というスタンスを曲げてはいけないのですが、大学には入学定員があり、それを満たさなければ運営できません。その理想と現実とのギャップが激しくなっているのです。

編集部:なかなか厳しい話ですね。

後藤:だと思いますし、実態がそうだから、日本の教育はアジア諸国から何周も遅れていると揶揄されているわけです。少子化で競争が緩くなり、教育の効果が薄くなっていく。そして、地方では児童・生徒がいなくなり、学校が消え、学校が支えてきた地域のコミュニティが沈滞し、それがまた人離れを加速させ、地域が消滅していく──。日本の教育はまさに崖っぷちで、大きな転換が必要とされているのです。

編集部:その危機から脱するには何が必要なのでしょうか。

後藤:日本の教育が窮地に追い込まれていることを、当事者たちが自覚することです。日本の教育のあり方は、昭和の高度成長期と本質的に何も変わっていません。それは高度経済成長期に育ち、バブルを経験した世代の教師たちの多くが、“正解”主義に陥っているからだと考えています。こうした世代の教師たちは、正解は常に一つであると決めつけ、正解が一つでないとものが言えなくなるタイプの人たちです。かつてはそれで良かったのです。目標も一つ、正解も一つでしたから。そうした人たちが自らの意識を変え、教え方を改めていかなければ、教育の変革は不可能でしょう。またそれと併せて、学校もかつての「小さな学校」に戻さなければなりません。しかし、現在の学校は、いろいろな役割を背負い過ぎています。それを改善しない限り、教師たちも、生徒の未来を見据えた指導ができないまま、ただ生徒を送り出すだけになってしまいます。

編集部:なるほど、勉強になりました。本当にありがとうございました。

後藤:こちらこそ。

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